夜が明けるころ、小高い丘に登ると、緑の茂る集落が見えた。背の高い椰子やマンゴーなどの樹木の中に高床式の家が点々とある。その集落のそこここから、白い煙が細長く立ち昇る。七輪に火を起こし、ご飯を焚き始めたのだ。ここは、ラオスに近い東北タイの農村。この辺りの人たちはラオス語を話すラオ系の人たちで、もち米が主食だ。
ゴム園を営むセーンウボンさんの家でも毎朝、蒸篭でもち米を蒸す。蒸したもち米は木製の大皿に開けて蒸気を飛ばし、竹で編んだ器に分け入れる。そうしたころ、紅い陽の光がそそぐ村の通りに、もち米の入った竹の器を持つ人たちが、家々から出てくる。黄衣をまとう托鉢の僧侶の列が静々と近づいてくると、人々は履物を脱いでひざまずき、竹の器からもち米を取り出して、僧侶たちの鉢に喜捨していく。
この村の朝の風景は、大河を越えたラオスまでずっと続いている。
このご飯を保存する竹製の器、実は日本でも冷蔵庫が一般に普及する前まで使われていた。日本の夏は蒸し暑い。ご飯をお櫃に入れておくと腐ってしまうので、夏は通気性のよい竹製の器に入れて保存したのだそうだ。福島県の会津では、竹笊にご飯を入れて布巾をかけ、井戸の中に吊るしておいたという。静岡県のカゴヒツやメシイザロと呼ばれた竹で編んだ器は、タイの器と形がよく似ている。
ラオスや東北タイのこの器は、家庭にいくつもある日用品だが、わたしには、精巧な芸術品に見える。器は、絹のように薄く割いた竹庇護を編んでできている。薄く柔らかいがしっかりしていて軽い。野良仕事の昼食にも持ち運びやすい実用品だ。竹ひごに色をつけて模様編みにしたものある。美しいだけでなく、丈夫で何年も使える優れものだ。東南アジアには、こういう竹細工の日用品が昔から使われていて、400年前の日本でも知られていた。
南蛮貿易が盛んになった16世紀。美しい竹細工は、当時輸入された東南アジア産の綿織物や陶器、砂糖など日本にない舶来品のひとつで、茶の湯にも用いられ、趣味人たちの間で「南蛮物」とよばれ珍重された。織田信長や伊達政宗が愛用した南蛮渡来のキセルはラオス製。キセルの長い竹官はラオス産だったので「羅宇(らう)」と呼ばれる。竹は東南アジアが本場だが、ラオスは竹の国として知られていたようだ。
セーンウボンさんの住むウドンタニーには、東南アジア最古とされる先史時代の遺跡がある。5000年も前から、この土地では青銅器や鉄器を用いて、米を作り豚などの家畜を育てて暮らしていたことが知られている。出土した土器は色彩も形も美しく洗練されていて、セーンウボンさんの台所にある素焼きの水瓶や鍋、それに陶製の臼とも重なる。臼は持ち運びしやすい小型の搗き臼。こういう搗き臼は、今も世界各地で使われている。
臼は、毎日の料理に欠かせない道具だ。ハーブやスパイスを潰してソースやカレーペーストなどの調味料をつくる。それとこの地方では、炒った米や胡麻を潰して筍と和えたり、茄子やいんげん豆、山菜など、野菜を使った様々な料理がこの臼でつくられる。「トントントントン」と臼を搗くリズミカルな音が聞こえたら、料理上手な印だという。
この村にももちろん電気は通っていて、テレビも冷蔵庫もある。テレビの料理番組ではスポンサーのフードプロセッサを使っているが、テレビを観ている人は臼を使う。日本に住んでいるタイ人も、わざわざ臼を持ってきて使っている。搗いて混ぜるのと、切って混ぜるのは根本的に違うのだ。臼での調理時間は機械と大して変わらず洗うのも簡単。紀元前に遡る道具を使い続けている人たちには「臼でつくる料理は美味しい」という体感が生れたときから備わっているのかもしれない。冷蔵庫を開けると、入っているのはどこの家でも飲料水だけ。食べ物は「冷蔵庫に入れるとまずくなるから」だという。確かに冷蔵庫に入れると硬くなるし風味が落ちる。家の池では食用の魚を飼い、鶏も放し飼い。市場では採れたての野菜や生きた魚が売られている。地産地消で、新鮮な食材を食べている人々の舌は敏感だ。
農作業を終えひと息ついた午後、近所の奥さんたちが木陰のバルコニーに集って、臼で作った料理を摘みながら、冗談を言い合いよもやまばなしで盛り上がっていた。
庭にあるパパイヤ木から青い実を採り、おしゃべりしながらパパイヤを薄くスライス。臼に入れて、トマトやスターフルーツ、タマリンド汁、にんにく、とうがらし、魚の塩辛などと共に、柄の長いスプーンで材料を返しながら器用に搗き和える。トントントントン、と心地よい美味しい音を響かせて。
旨味の効いた甘辛酸っぱいパパイヤの和え物をつまみながら、のどかな午後が過ぎていく。
『栄養と料理』2018年4月号 写真・文 沙智 Photographs&Text©️Sachi
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